世界に誇る永遠の「雑音」

東京ビートルズ

The Tokyo Beatles


 世間ではこの東京ビートルズというと「ビートルズの頭に東京と付けただけで何とも悲しくなる」だの「ビートルズの粗悪なパチもの」だの「バカにして楽しむもの」だの「当時の日本のレベルはこんなもの」だのと無茶苦茶なもの言いが通用しているようですが、私はこれに大変憤慨するものであります。結論から言ってしまうと彼らの音楽はビートルズという幻想を取っ払い、純粋に楽曲として見てみれば、極めて独自な、また極めて魅力あるサウンドであって、そんなに変ではなく、むしろビートルズが神棚に祭り上げられてしまった今、当時の狂熱をストレートに伝え、聴く者を上気させるサウンドはこちらなのではないかと思います。偉大なる先駆者にして、結果を残した彼らに対して嘲笑のみを浴びせ、軽薄な優越感に浸るような人間はさっさと死んでいただきたいと思うのです。まじで。

 東京ビートルズは、ソロデビューしていたジョージ岡らにより昭和39年3月に結成された本邦最初のビートルズのコピーバンドであります。メンバーは本家に合わせて四人でしたが、楽器を演奏できないメンバーがいたため、サポートメンバーが入るという変則的な形で興行を行っていました。同年5月にはビクターからビートルズのカバー「抱きしめたい」でデビュー。ところが上記のような事情からトラックにはスタジオミュージシャンが起用されましたが、当時ビートルズのようなロック/ビートを上手く解釈出来るミュージシャンが殆どいず、結果としてジャズのフィーリングでの解釈による演奏となり、また、のちに漣健児自身が反省した日本語歌詞で歌われたこともあり、後世、物笑いの種になってしまいました。但し、自分にとっては世間でのこのような評価とは全く異なり、このシングルはこのシングルで完成しており、魅力あるものであると認識しております。このアレンジについては、ロック・アレンジのストレートさを稚拙ととらえたジャズメンがジャズ発想の変化球をまぶし「高級な」ものにしたという素晴らしい解釈がありますのでここに記しておきます。翌月、同路線の「キャント・バイ・ミー・ラブ」がリリースされましたが、これらのシングルはさほどのヒットにはなりませんでした。その後もクール・キャッツやクレイジー・ビートルズらの和製ビートルズたちと対抗して活発なライブ活動を行っていました。この時期、マッシュルームカットを採用していましたが、コスチュームは本家の襟なし背広ではなく白いトレパンを採用していました。これはファンにサインペンでコスチュームにいろいろとメッセージを書いていただくというトンでもない発想から採用されたもので、実際ステージが終わるとメッセージがいっぱいに書き込まれていたと言うことです。この時代はビートルズのレパートリーは全部ものにすると言うような無邪気な憧れを素直に表明するような無垢な精神が垣間見られます。

 和製ビートルズたちは、和製ビートルズ大会のような対バンのショーなども行っていましたが基本的にはどれもこれもコーラスグループでした。それが、この年、英国からリヴァプール・ファイヴというバンドが来日し、しばらく日本に滞在し公演を行い、東京ビートルズもこのバンドと対バンする機会に恵まれました。このリヴァプールバンドは英国内では不遇でしたが、後世高く評価されるフリークビートバンドであり、日本の当時のロッカーに本場のバンド公演の醍醐味を伝え衝撃を与えました。アウト・キャストらにも大影響をあたえましたが、この東京ビートルズもその例外ではなく、本格的なバンド志向に転換、サポートメンバーを正式にメンバーに加え、最古級のボーカル&インストルメンタルのロックバンドとして再生しました。翌年この体制でフォノシートに参加、つづいて彼ら単独のフォノシートをリリースしました。これらの音源は現在でこそガレージ・ミュージックとして世界的に評判が良いのですが、当時は特に評判となることもなく、この年のエレキブームの中に埋もれ、以後2曲のエレキ・インストを残しただけでレコードなどが出ることはありませんでした。なおこのフォノシートの曲の中には録音当日にいきなり楽譜を渡され、練習するまもなく勢いで録音した楽曲もあるとのことです。

 しかし、バンド自体はもう少し後まで生き残っており、本家とは似ても似つかない捨て鉢なオーラを発する空前絶後の八方破れのステージングを売りに、キンクス風のオリジナル曲を多数擁して活動していましたが、42年前半にGSのブームを見ることなく解散してしまいました。このステージングは本当に凄いものだったらしく、実際に彼らのショーを見た何人もの著名人が、最大限の修辞をそえて紹介しています。

 なお、この高田文夫らによる「再発見」まで全く無視されていたとする記述をよく目にしますが、実は昭和49年に発表された葡萄畑の「夕陽に泣いた少年の伝説」という歌で彼らの名前が出てきます。当時からその魅力を解っていた人は解っていたのです。

 ということで、シングルは永遠の「雑音」としての感動を、フォノシートの音源はロックならざるガレージという新機軸な音楽として高く評価するものであります。


パーソネル

市川次郎 ベース、ボーカル

ジョージ岡 ギター、ボーカル

斉藤タカシ ボーカル

須藤マコト ボーカル(シングルのみ)

 

加瀬沢道雄 ドラムス、ボーカル(フォノシート以降)

田村一郎 リードギター(フォノシート以降)


ディスコグラフィー(全曲CD化済)

シングル

発売日 レコード番号 タイトル 作詞 作曲 編曲 オリコン順位/枚数 備考
39.5.5 ビクターVPV8 抱きしめたい 漣健児 レノン/マッカートニー 寺岡真三 発足前  スタジオミュージシャンによるブラスの先導する賑やかなジャズ系トラックに乱痴気騒ぎという表現がピッタリの怒濤のコーラスが必死にぶつかっていく、旧時代の黄昏と新時代の夜明けが凌ぎあう狂気の記念碑的作品。
プリーズ・プリーズ・ミー 漣健児 レノン/マッカートニー 寺岡真三  A面と同じ雰囲気。スリーファンキーズの同作品よりもとにかくコーラスが荒削り。同じ音程で繋いでいくコーラスには浄瑠璃との根元的同一性を指摘する説あり。ビブラフォンが妙味。
39.6.20 ビクターVP13 キャント・バイ・ミー・ラブ 漣健児 レノン/マッカートニー 寺岡真三

発足前

 これもジャズっぽいアレンジだがビート感は増している。江戸弁の使用が東京ビートルズの名に恥じないとの意見もあるが・・・。なお一部にこの歌の歌詞についての一部分を取り出して、まるで拝金主義の歌であるかのように紹介したものがあるが、全部をちゃんと聴けば本歌の文意通り、金で買えないものもあるという歌詞なので、この手のねじ曲がった不当な貶め方には怒りを覚える。
ツイスト・アンド・シャウト 漣健児 ラッセル/メドレイ 寺岡真三  ビートルズに比べると異常に長閑。荒削りなコーラスがここでも炸裂。シャウトした後に「叫べよベイビーナウ」という歌詞が続くところのベタさに感動を覚える。これもスタジオミュージシャンによる演奏。

フォノシート

参加アルバム

発売日 カタログ番号 タイトル 収録曲 備考
40.9 ビクター出版 SB5503 ビートルズ特集16曲 A(カンサス・シティ)/(ロック・アンド・ロール・ミュージック)/エイト・デイズ・ア・ウィーク/(ノー・リプライ)Bキャント・バイ・ミー・ラブ/(パーティはそのままに)/シー・ラヴズ・ユースロー・ダウンC(恋する二人)/(ヤァー!ヤァー!ヤァー!ビートルズがやってくる)/(アイル・フォロー・ザ・サン)/(アイ・フィール・ファイン)D(プリーズ・ミスター・ポストマン)/ツイスト・アンド・シャウト抱きしめたいプリーズ・プリーズ・ミー※()付きの楽曲はザ・サンズの演奏  ザ・サンズとの共演による二枚組フォノシート。シングルで発売された楽曲4曲はその音源が収録されているが、新たに3曲が新録音されている。これは自演であり、日本のバンドによる歌入りのカバーとしてはおそらく最古。特に「シー・ラヴズ・ユー」には名前に似合わぬ反ビートルズ的な解釈の萌芽がみられ、のちにキンクス路線へ移行していく必然が感じられるグッド・プレイ。
40.11 ビクター出版 SB4044 リヴァプール・サウンド特集 A涙の乗車券/悲しき願い/ラスト・タイム/エニー・ウェイ・ユー・ウォント・イットBアイ・キャント・ストップ/二人の恋は/オール・オブ・ザ・ナイト/ミセス・ブラウンのお嬢さん  ビートルズ、デイヴ・クラークファイヴら当時世界を席巻していたブリティッシュ・インベンションのヒット曲をカバーしたもの。すべて自演。和製ガレージの傑作でロック感覚とはまた違った視点からカバーされており、その妙な違和感が独自な世界を構築しており、また音的には同時代の海外ガレージバンドと互するサウンドをちゃんと出しており、両面から堪能できる。自発的かどうかは別にしてこの時点でローリングストーンズ、アニマルズ、キンクスのカバーを披露しているのは驚愕。特に「オール・オブ・ザ・ナイト」は本歌とは全く違った味に仕上がってあり、これでは一番の聞き物。

  このほか40年11月に出た「エレクトリックギターベストヒット」(ポリドール)で「十番街の殺人」と「ダイヤモンド・ヘッド」を吹き込んでいるが全くそつのない匿名的な演奏であって特に言うべき事はない。

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